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母の追悼記 『いのち消ゆる その時まで…』
母の追悼記
『いのち消ゆる、その時まで…』
昭和の時代を命懸けで駆け抜けた母と子の愛情物語です
全29話完結編 (ノンフィクション)
いのち消ゆる、その時まで… (1)からお読み下さい。
http://hahanotuitouki.blog.so-net.ne.jp/2009-04-18
関連記事
http://blogs.yahoo.co.jp/yumesaki373/folder/1598203.html
いのち消ゆる、その時まで… (29)
なつかしい歌声が
わたしの心に響く
忘れていた幼い日の
スナップ写真のように
くりかえし 寄せる
波のように
ゆらり ゆられて
眠る わたしに
ささやくように
願いを込めた
やさしい母の子守詩
夕暮れの帰り道
ちいさな格子の窓に
灯し出され揺れ動いた
家庭の匂いに染まる
あの頃の 深い
幸福の日々は
明日も 心に
抱き つづけて
新たな幸福の
基盤として
あゆんでゆくよ いつまでも
ふりかえる 日々は
未来のために
いつも きれいに
みがき つづける
幸せ築く
暮らしの中で
みちびく母の子守詩
(母の子守詩 詩…里中太一)
【いのち消ゆる、その時まで…完】
わたしの心に響く
忘れていた幼い日の
スナップ写真のように
くりかえし 寄せる
波のように
ゆらり ゆられて
眠る わたしに
ささやくように
願いを込めた
やさしい母の子守詩
夕暮れの帰り道
ちいさな格子の窓に
灯し出され揺れ動いた
家庭の匂いに染まる
あの頃の 深い
幸福の日々は
明日も 心に
抱き つづけて
新たな幸福の
基盤として
あゆんでゆくよ いつまでも
ふりかえる 日々は
未来のために
いつも きれいに
みがき つづける
幸せ築く
暮らしの中で
みちびく母の子守詩
(母の子守詩 詩…里中太一)
【いのち消ゆる、その時まで…完】
いのち消ゆる、その時まで… (28)
私たち姉弟は母の死に面して、大変に貴重な教訓を得たのである。
それは人として生まれたからには、自らの意思で命を断ってはならないのだということ。
天命尽きて、この命が消ゆる、その時まで、決して諦めてはならないのだということ。
その理由は、たとえ誰であろうとも人は一人では生きてゆけないし、ましてや誰からも恩を受けずには生きられない。
人間社会の秩序と調和は、報恩感謝の念い無くしてありえないということ。
この念いこそ人の高ぶる感情を押さえ、優しき愛情に立ち返らせる大和の心である。
日本の風習に失われて久しい大和の心を、母は人生を賭して演じたのだ。
苦しみも悲しみも甘んじて受けとめた上で、なおかつ大和の精神を貫いたのである。
私は母を想うたびに、日本の信仰の原点を知らされるのである。
信仰の原点は家庭にこそ見出すべきであり、その根底には心の故郷を高天原に、八百万の神々を中心にて統べる天照御大神に、大神の母心に、私たちの心を里帰りさせることであります。
母は今も私たちの心の中に生きている。
生き続けている。
この母の人生を細かく知っている生きた証人たちは、今もそれぞれの地方で命の炎を暖め続けているのだから…。
それは人として生まれたからには、自らの意思で命を断ってはならないのだということ。
天命尽きて、この命が消ゆる、その時まで、決して諦めてはならないのだということ。
その理由は、たとえ誰であろうとも人は一人では生きてゆけないし、ましてや誰からも恩を受けずには生きられない。
人間社会の秩序と調和は、報恩感謝の念い無くしてありえないということ。
この念いこそ人の高ぶる感情を押さえ、優しき愛情に立ち返らせる大和の心である。
日本の風習に失われて久しい大和の心を、母は人生を賭して演じたのだ。
苦しみも悲しみも甘んじて受けとめた上で、なおかつ大和の精神を貫いたのである。
私は母を想うたびに、日本の信仰の原点を知らされるのである。
信仰の原点は家庭にこそ見出すべきであり、その根底には心の故郷を高天原に、八百万の神々を中心にて統べる天照御大神に、大神の母心に、私たちの心を里帰りさせることであります。
母は今も私たちの心の中に生きている。
生き続けている。
この母の人生を細かく知っている生きた証人たちは、今もそれぞれの地方で命の炎を暖め続けているのだから…。
いのち消ゆる、その時まで… (27)
話を病床の母に戻すが、母は末期癌症状が現れてからは、過去現在未来が一堂に会したように、うわごとを呟いては思い出したかのように何処かへ出掛けようとしたり、横たわったかと思いきや突然置き上がって虚空に話し掛けたりと、もはやこちらが話し掛けても正常な会話にはならなくなった。
母が亡くなる前の最後の夜に、相変わらず母は錯乱状態であったが、私は母と二人きりになった時に、今までの親不孝を詫びて何度も何度も謝った。
すると母は突然正気に戻り、落ち付いた静かな声で…
『解かってる。
達ちゃんのことは、お母さん一番よく解かってるから…。
お母さん解かってるから…』
この会話が母子の最後の会話であった。
母は錯乱状態の中でも、寮母として寮生であった娘さんたちの心配ばかりしていた。
それだけ母にとって彼女たちは身近な家族になりつつあったのだろう…。
門限を守らず母を困らせた寮生や、自分勝手な言い掛かりで母を悩ませた寮生もいたようだが、そうした母を笑顔で慕い、影に日向に助けてくれた娘さんも多かったと、私は母から聞いている。
ある子がバイト先で金銭を盗まれた時も、母は自分のことのように心配していたし、ある子に彼氏が出来た時も自分の本当の娘のように喜んでいた。
彼女たちの話をしている時の母は、心から嬉しそうであった。
母の人生は、寮母としての天職で花開いたのであろう。
たった三年程の開花期間であったが、この時期があったればこそ母の人生の総てが報われたと私は感じている。
この時期に母と巡り合った全国津々浦々の娘さんたちにも心から御礼を申し上げる。
母は自分の病を早く治して、数多の人々に御恩返しをしたい念いで、最後の最後まで、自らの病と戦った。
母は決して諦めてはいなかったのである。
父は三年後に膵臓癌で亡くなったが、父は告知を受けていた…というよりも医者を説得して聞き出したわけだが、自分を捨てて飛び出していった私たち母子と、世間の非情を怨みながら、ただただ死期を待って旅立って逝った。
父と母は誠に対称的であった。
母は深夜に二度目の大喀血をしてもなを、最後まで生きんともがいていたが、それはもはや生に対する執着ではなく、御恩を頂いた方々への報恩感謝のためであり、この念いが切実であることを私たち姉弟は痛いほど知っていた。
だからこそ私たちは冒頭に揚げた言葉をかけざる負えなかったのだ。
『お母さん、もういいから。
おじいちゃん、おばあちゃんの元へ逝っていいから。
もういい…、もう頑張らなくていいから、もう天国へ逝っていいから…』
母が亡くなる前の最後の夜に、相変わらず母は錯乱状態であったが、私は母と二人きりになった時に、今までの親不孝を詫びて何度も何度も謝った。
すると母は突然正気に戻り、落ち付いた静かな声で…
『解かってる。
達ちゃんのことは、お母さん一番よく解かってるから…。
お母さん解かってるから…』
この会話が母子の最後の会話であった。
母は錯乱状態の中でも、寮母として寮生であった娘さんたちの心配ばかりしていた。
それだけ母にとって彼女たちは身近な家族になりつつあったのだろう…。
門限を守らず母を困らせた寮生や、自分勝手な言い掛かりで母を悩ませた寮生もいたようだが、そうした母を笑顔で慕い、影に日向に助けてくれた娘さんも多かったと、私は母から聞いている。
ある子がバイト先で金銭を盗まれた時も、母は自分のことのように心配していたし、ある子に彼氏が出来た時も自分の本当の娘のように喜んでいた。
彼女たちの話をしている時の母は、心から嬉しそうであった。
母の人生は、寮母としての天職で花開いたのであろう。
たった三年程の開花期間であったが、この時期があったればこそ母の人生の総てが報われたと私は感じている。
この時期に母と巡り合った全国津々浦々の娘さんたちにも心から御礼を申し上げる。
母は自分の病を早く治して、数多の人々に御恩返しをしたい念いで、最後の最後まで、自らの病と戦った。
母は決して諦めてはいなかったのである。
父は三年後に膵臓癌で亡くなったが、父は告知を受けていた…というよりも医者を説得して聞き出したわけだが、自分を捨てて飛び出していった私たち母子と、世間の非情を怨みながら、ただただ死期を待って旅立って逝った。
父と母は誠に対称的であった。
母は深夜に二度目の大喀血をしてもなを、最後まで生きんともがいていたが、それはもはや生に対する執着ではなく、御恩を頂いた方々への報恩感謝のためであり、この念いが切実であることを私たち姉弟は痛いほど知っていた。
だからこそ私たちは冒頭に揚げた言葉をかけざる負えなかったのだ。
『お母さん、もういいから。
おじいちゃん、おばあちゃんの元へ逝っていいから。
もういい…、もう頑張らなくていいから、もう天国へ逝っていいから…』
いのち消ゆる、その時まで… (26)
ここで私は、母の人生を振り返って思いを巡らしてみたい。
人間にとっての理想の家族とは、一体どのような家庭を云うのであろうか。
好き合った二人が結ばれ、多くの祝福の中で儀式を行い、やがて子供が出来て、あたたかい家庭を築きあげる…。
こうした家庭像を夢見ることは誠に大切であるが、家庭生活を維持してゆくためには、主人の仕事があり主婦の家事があり、子供たちの学事があり、それぞれの知人や友人関係があり、さらには地域社会でのルールがあり、一人の国民としての義務もある。
近年は主婦のパートに止まらず、夫婦共稼ぎの家庭が多くなってきたようだが、主婦としての家庭内での仕事量や重要度を考えても、家庭内で主婦が行わなければならない家事は、本当は外での仕事と兼業ではままならないはずなのだ。
掃除、洗濯、料理、裁縫、さらに子供の養育と…。
専業主婦としての仕事だけでも手一杯であるはずなのだ。
内助の功というものは片手間で発揮出来るような簡単なものではない。
本来の主婦の家事は、家庭内において調理士であり栄養士であり、看護士であり薬剤士であり、会計士であり保育士でもある。
これらの専門知識まではいかないにしても、家庭内で有用な基礎知識は必要でありましょう。
だから学ぶことも多いはずなのだ。
片や一家の大黒柱である主人は、家族全員を経済的に支えるためにも、身命を賭して働かなければならないわけで、ここにおいても主人は一切弱音を吐いてはならないのである。
かくのごとく家族には、それぞれ役割分担があるはずで、自分のポジションを確かに担ってゆく時に、それぞれに対する信頼と協調とが培われてゆくのである。
経済的に苦しいならば夫婦共働きも止む負えないであろうが、それによって女性の家庭内における妻としての美徳は、随分と廃れてきたのではないか。
良妻賢母という言葉すら殆ど聞かれなくなり、子供を作りながらも家庭の妻を仕事に出さなければならなくなった責任は、世の男性にある…。
そう思わざる負えない。
増え続ける青少年の凶悪犯罪や、年々低年齢化する性犯罪やイジメや自殺などは、家庭の妻が主婦業に専念できなくなってより増え続けているのである。
それは家庭内における子育ての重要性を軽視した結果でありましょう。
家族としての主婦の仕事の重要性を、今こそ見直す時期ではないであろうか。
女性が如何に輝くか、女性としての本当のポジションで、どのように輝くかで、家庭も社会も、強いては国家をも立ち直らせることが出来るのである。
人間にとっての理想の家族とは、一体どのような家庭を云うのであろうか。
好き合った二人が結ばれ、多くの祝福の中で儀式を行い、やがて子供が出来て、あたたかい家庭を築きあげる…。
こうした家庭像を夢見ることは誠に大切であるが、家庭生活を維持してゆくためには、主人の仕事があり主婦の家事があり、子供たちの学事があり、それぞれの知人や友人関係があり、さらには地域社会でのルールがあり、一人の国民としての義務もある。
近年は主婦のパートに止まらず、夫婦共稼ぎの家庭が多くなってきたようだが、主婦としての家庭内での仕事量や重要度を考えても、家庭内で主婦が行わなければならない家事は、本当は外での仕事と兼業ではままならないはずなのだ。
掃除、洗濯、料理、裁縫、さらに子供の養育と…。
専業主婦としての仕事だけでも手一杯であるはずなのだ。
内助の功というものは片手間で発揮出来るような簡単なものではない。
本来の主婦の家事は、家庭内において調理士であり栄養士であり、看護士であり薬剤士であり、会計士であり保育士でもある。
これらの専門知識まではいかないにしても、家庭内で有用な基礎知識は必要でありましょう。
だから学ぶことも多いはずなのだ。
片や一家の大黒柱である主人は、家族全員を経済的に支えるためにも、身命を賭して働かなければならないわけで、ここにおいても主人は一切弱音を吐いてはならないのである。
かくのごとく家族には、それぞれ役割分担があるはずで、自分のポジションを確かに担ってゆく時に、それぞれに対する信頼と協調とが培われてゆくのである。
経済的に苦しいならば夫婦共働きも止む負えないであろうが、それによって女性の家庭内における妻としての美徳は、随分と廃れてきたのではないか。
良妻賢母という言葉すら殆ど聞かれなくなり、子供を作りながらも家庭の妻を仕事に出さなければならなくなった責任は、世の男性にある…。
そう思わざる負えない。
増え続ける青少年の凶悪犯罪や、年々低年齢化する性犯罪やイジメや自殺などは、家庭の妻が主婦業に専念できなくなってより増え続けているのである。
それは家庭内における子育ての重要性を軽視した結果でありましょう。
家族としての主婦の仕事の重要性を、今こそ見直す時期ではないであろうか。
女性が如何に輝くか、女性としての本当のポジションで、どのように輝くかで、家庭も社会も、強いては国家をも立ち直らせることが出来るのである。
いのち消ゆる、その時まで… (25)
母は普段の定期検診では癌が見つけられなかったが、時おり痛む胃を疑って町医者で診てもらうと、担当医が詳しく検査したほうがいいと言うので城西病院を紹介してくれた。
そして診察の結果、胃潰瘍で即入院ということになり、一月後に摘出手術を行った。
その時に担当医が私たち姉弟を呼んで話すには、母は胃癌で余命は三ヶ月だということであった。
母の胃を切り開いてみると、癌は胃だけにとどまらず、腸にまで転移していたそうで、すでに手遅れであったそうだ。
私たち姉弟は、とても信じられない現実の中で、それでも笑顔で母を励まし全快を信じ合った。
病床の母に一時帰宅を許されたのは五月の連休であった。
久し振りに母子二人で岩倉の曽野団地に帰った。
その日の深夜、フッと目がさめた私は驚いた。
隣で眠っているはずの母が、暗闇の中で布団の上に正座してジッとしていたのである。
私は慌てて声をかけた。
すると母は一言…
『これからは人様のために生きたい…』
か細い声で母はそう言った。
それを聞いた時に私は、もしかしたら母の病は治るのではないかと思った。
母は自分が胃癌であり、残り少ない命であることを知らされていなかったので、病気を一日も早く直して、職場復帰したいと常々言っていた。
事実を知る私としては、この時ほど母の病を癒してあげたいと思ったことは他にはない。
翌朝。
母は胃癌の手術以来点滴に頼ってきたため、固形物の食物を胃が受け入れなかったが、その日の朝は私が作ったお粥を美味しいといって全て平らげた。
しかしこの奇跡もヌカ喜びであったのだ。
また母は病院に戻り、病魔との最後の戦いを強いられることになった。
そして診察の結果、胃潰瘍で即入院ということになり、一月後に摘出手術を行った。
その時に担当医が私たち姉弟を呼んで話すには、母は胃癌で余命は三ヶ月だということであった。
母の胃を切り開いてみると、癌は胃だけにとどまらず、腸にまで転移していたそうで、すでに手遅れであったそうだ。
私たち姉弟は、とても信じられない現実の中で、それでも笑顔で母を励まし全快を信じ合った。
病床の母に一時帰宅を許されたのは五月の連休であった。
久し振りに母子二人で岩倉の曽野団地に帰った。
その日の深夜、フッと目がさめた私は驚いた。
隣で眠っているはずの母が、暗闇の中で布団の上に正座してジッとしていたのである。
私は慌てて声をかけた。
すると母は一言…
『これからは人様のために生きたい…』
か細い声で母はそう言った。
それを聞いた時に私は、もしかしたら母の病は治るのではないかと思った。
母は自分が胃癌であり、残り少ない命であることを知らされていなかったので、病気を一日も早く直して、職場復帰したいと常々言っていた。
事実を知る私としては、この時ほど母の病を癒してあげたいと思ったことは他にはない。
翌朝。
母は胃癌の手術以来点滴に頼ってきたため、固形物の食物を胃が受け入れなかったが、その日の朝は私が作ったお粥を美味しいといって全て平らげた。
しかしこの奇跡もヌカ喜びであったのだ。
また母は病院に戻り、病魔との最後の戦いを強いられることになった。
いのち消ゆる、その時まで… (24)
私は母の想い出として忘れられない汚点がある。
母の手記にもあるように、母の最後の希望は、私の結婚であり内孫の誕生であった。
しかし私は結婚する意志が薄かった。
それは両親の離婚を機会に、私は私なりに大いに悩み、約二年の月日の間、人生とは何か…について深く思い淀んだのであった。
人は何のために生まれ、何故に生きているのか…。
この答えを引き出すために実に二年もかけたのである。
その間も学業とバイト生活は続き、様々な人間関係を肌身に感じながら、もはや自分のための人生が採るに足りなく、何の興味も感心も無くなっていたのである。
この思いは私を自殺に走らせるには十分な理由であったが、脳裏に映った母の映像が命こそ救ってくれたものの、私が生きてゆく意義は何も無かったといえるのである。
それでも前向きに生きんと決意できた理由は、自分はともかくも同じような悩み苦しみを抱いた子供たちが、その悩みの淵に引きずり込まれんとしているならば、それを黙って見過ごすことが出来ないと思えたのである。
私と同じ精神の苦しみをあどけない子供たちには降りかかって欲しくないと思えたからなのだ。
たとえ最後まで彼らを助けられないとしても、その悩みを、同じ気持ちを知る者として聞いてあげられる。
そうした人のための人生を私は生き始めたのであった。
現在では、数多くの相談を受け、幾つも解決に導いては来たが、私の悩み相談の原型は此々にこそあったのである。
だから自分が結婚をして、幸せな家庭を築こうなどとは思いもしなかったし、人の悩みを供に悩んでいることが多かったため、自らの幸せには疎かったのも事実であった。
私が関東へ仕事に出てゆく間際に、母は私の結婚を強く望んだ話を持ちかけてきた時に、私は良い機会だと思って母に自分の当時の思いを語ったことがあった。
そして最後に母に言った言葉が、両親が離婚をした時点で息子の結婚に対する期待も諦めるべきだと言ってしまった。
それまでの母の深い愛情を少しでも察する余裕があれば、母を想いやる優しさが、あと少しの優しさが私にあったならば、こんなことは言わなかったであろう。
いや言えなかったであろう。
この時に母は涙を流しながら次の様に言ったのだ。
『うん、わかった。
これからは達ちゃんの思うように生きて行きなさい。
お母さんのことは何も心配ないから。
お母さんの老後のこととかも何も気にしなくていいから。
お母さんは一人でも生きてゆくから。
達ちゃんが信じたとうり生きていきなさい』
そして私は関東へ旅立っていった。
母は既に寮母をしていたので、お預かりしている娘さんたちの元へ帰っていった。
それまで息子に対しての並々ならぬ思いが、実の息子の思いもよらぬ心ない言葉で、肩透かしを食らった感じであったろうか。
複雑な思いは母のストレスにも影響したかもしれない。
本当は此のことが原因で胃癌になったのかもしれない。
母よ赦してくれ…。
母の手記にもあるように、母の最後の希望は、私の結婚であり内孫の誕生であった。
しかし私は結婚する意志が薄かった。
それは両親の離婚を機会に、私は私なりに大いに悩み、約二年の月日の間、人生とは何か…について深く思い淀んだのであった。
人は何のために生まれ、何故に生きているのか…。
この答えを引き出すために実に二年もかけたのである。
その間も学業とバイト生活は続き、様々な人間関係を肌身に感じながら、もはや自分のための人生が採るに足りなく、何の興味も感心も無くなっていたのである。
この思いは私を自殺に走らせるには十分な理由であったが、脳裏に映った母の映像が命こそ救ってくれたものの、私が生きてゆく意義は何も無かったといえるのである。
それでも前向きに生きんと決意できた理由は、自分はともかくも同じような悩み苦しみを抱いた子供たちが、その悩みの淵に引きずり込まれんとしているならば、それを黙って見過ごすことが出来ないと思えたのである。
私と同じ精神の苦しみをあどけない子供たちには降りかかって欲しくないと思えたからなのだ。
たとえ最後まで彼らを助けられないとしても、その悩みを、同じ気持ちを知る者として聞いてあげられる。
そうした人のための人生を私は生き始めたのであった。
現在では、数多くの相談を受け、幾つも解決に導いては来たが、私の悩み相談の原型は此々にこそあったのである。
だから自分が結婚をして、幸せな家庭を築こうなどとは思いもしなかったし、人の悩みを供に悩んでいることが多かったため、自らの幸せには疎かったのも事実であった。
私が関東へ仕事に出てゆく間際に、母は私の結婚を強く望んだ話を持ちかけてきた時に、私は良い機会だと思って母に自分の当時の思いを語ったことがあった。
そして最後に母に言った言葉が、両親が離婚をした時点で息子の結婚に対する期待も諦めるべきだと言ってしまった。
それまでの母の深い愛情を少しでも察する余裕があれば、母を想いやる優しさが、あと少しの優しさが私にあったならば、こんなことは言わなかったであろう。
いや言えなかったであろう。
この時に母は涙を流しながら次の様に言ったのだ。
『うん、わかった。
これからは達ちゃんの思うように生きて行きなさい。
お母さんのことは何も心配ないから。
お母さんの老後のこととかも何も気にしなくていいから。
お母さんは一人でも生きてゆくから。
達ちゃんが信じたとうり生きていきなさい』
そして私は関東へ旅立っていった。
母は既に寮母をしていたので、お預かりしている娘さんたちの元へ帰っていった。
それまで息子に対しての並々ならぬ思いが、実の息子の思いもよらぬ心ない言葉で、肩透かしを食らった感じであったろうか。
複雑な思いは母のストレスにも影響したかもしれない。
本当は此のことが原因で胃癌になったのかもしれない。
母よ赦してくれ…。
いのち消ゆる、その時まで… (23)
* 母の手記 *
(昭和五十七年三月二十日)
名古屋の高速道路の管理事務所へ行った。
昨日から一寸気分的に落ち込んで居たけど、一日中みんなとさわいで仕事をしたり、車の行き返りで大分、気分も晴れた。
何と云っても専務と一緒にやる仕事は疲れを忘れさせる。
其れに答える様、私も仕事に対して頑張りたい。
(昭和五十七年三月二十八日)
掃除屋さんは割と日曜日が忙しい。
今日はカネ又・新光・扶桑農協を昼前にこなして、昼御飯を大口福祉で食べて、三月二十九日にオープンするプールの掃除だった。
思ったより時間が掛かって家へ帰ったら七時三十分だった。
今日もくたびれたので風呂に入ってすぐ寝たけど、一寝入りしたら目がさめて中々寝付かれずに今これを書いている。
ここにお世話になるのも後三日だ。
ここのお父さん(薮内さん)も小夜子も本当に良くやってくれて感謝の気持ちで一杯です。
此れは達ちゃんも忘れてはならない事で、必ず御恩返しはしなければいけない。
(昭和五十七年四月一日)
今日から岩倉市の住民になったのだ。
達ちゃんと二人だけの生活が始まる。
達ちゃんの自動車学校とカチ合ったので、お金が苦しいけど何とか一ヶ月頑張らなくっちゃ。
専務さんから炬燵とストーブをもらった。
本当に皆さんのお陰で毎日毎日生きていける。
お金が出来たら、みんな呼んで御礼をしたい。
(昭和五十七年四月五日)
今日は亡くなった子供の命日だった。
仕事は名古屋だったので、帰りに何かお供えを買ってと思って居たけど、あっちこっちと用事をたして最後になったらお金が少なくなり、お供え物が、あんぱんになっちゃった。
此の子供が此の世に居たら私の人生は何んな人生だったかな?…
(昭和五十七年四月十五日)
朝たくさん雨が降っていた。
今日、高橋さん夫妻が遊びに来てくれた。
色々とお土産をたくさんもって来てくれて本当に助かった。
其の上、洗濯機を買う様にと、お金迄いただいた。
涙が出る程、嬉しい。
四時半頃、駅西の掃除をして居る時にバスから降りた(高橋御夫妻を)専務が家迄送りとどけて、おまけにビールとお酒を買ってくれて、とっても感謝している。
夜、高橋さんを連れて飲みに行き、十一時頃迄帰って来なかったので、田んぼにでもはまってやしないかと心配したけど、無事に帰って、やれやれ。高橋さんも専務も、とっても楽しかったと喜んでくれた。
(昭和五十七年四月二十日)
今日は同朋高校へいった。
生徒も先生も御苦労さんと云ってくれる。
子供達の嬉々とした姿を見ると、比奈子の高校時代の頃が思い出される。
(昭和五十七年五月二十四日)
尾西を出てから今日で丸一年になる。
此の一年間お父さんに対する後ろめたさ、又は憤り、悲しさ、あらゆる事をくぐりぬけて一年たった。
心の中にすっきりと云う事が無く、ある時は吐き出し、ある時は落ち込み、少しづつ楽な気持ちになりつつある。
昨日は日曜日で休んだけど、手の痛みやら気持ちのやり場の無い自分を持て余して今日も休んだ。
達ちゃんには内緒にして休もうと思い、会社へ出て行くのを待って私も出掛けた。
達ちゃんが一生懸命に働いて居るのに親がくじけてはいけないと思って努めて明るく振る舞った。
お姉ちゃんの所へ行って一日過ごして帰って来た。
お姉ちゃんの所へ行くと結局お父さんの話が出るけど、私の都合のいい様にして話の結末をつけて自己満足している。
其れでないと又、今夜も眠れなくなる。
(昭和五十七年八月六日)
今日めずらしく比奈子が泊りに来た。
一宮のお母さんがいい人だから、私に似てノンビリ屋さんだけど何となくおいてもらえそう。
色々話を聞いて安心した。
小夜子、比奈子、達雄君、それぞれに自分の道を正直に生きてほしい。
私も今だに頭のすみにこびりついて居る、お父さんの事すっきり取りのぞきたい。
此れは死ぬ迄は無理だろう。
(昭和五十七年八月七日)
今日土曜日、達ちゃんは今晩も夜中のドライブだと云う。
又々心配だ。
先日、達ちゃんがお父さんに会ったと云う。
元気にやってるらしいと満足して居た。
私には満足していいのやら何と無く複雑だ。
自分の走った行動がいい事とは思わないが、自分にとって後悔は一度もした事がないので、毎日ばくぜんと行くよりか仕方が無い、私の希望は達雄君が嫁さんをもらって家を建てたら、其の時に命が終っても仕方が無いと思って居る。
どんなに精神的体力的に苦しくても働く事だ。
(昭和五十七年三月二十日)
名古屋の高速道路の管理事務所へ行った。
昨日から一寸気分的に落ち込んで居たけど、一日中みんなとさわいで仕事をしたり、車の行き返りで大分、気分も晴れた。
何と云っても専務と一緒にやる仕事は疲れを忘れさせる。
其れに答える様、私も仕事に対して頑張りたい。
(昭和五十七年三月二十八日)
掃除屋さんは割と日曜日が忙しい。
今日はカネ又・新光・扶桑農協を昼前にこなして、昼御飯を大口福祉で食べて、三月二十九日にオープンするプールの掃除だった。
思ったより時間が掛かって家へ帰ったら七時三十分だった。
今日もくたびれたので風呂に入ってすぐ寝たけど、一寝入りしたら目がさめて中々寝付かれずに今これを書いている。
ここにお世話になるのも後三日だ。
ここのお父さん(薮内さん)も小夜子も本当に良くやってくれて感謝の気持ちで一杯です。
此れは達ちゃんも忘れてはならない事で、必ず御恩返しはしなければいけない。
(昭和五十七年四月一日)
今日から岩倉市の住民になったのだ。
達ちゃんと二人だけの生活が始まる。
達ちゃんの自動車学校とカチ合ったので、お金が苦しいけど何とか一ヶ月頑張らなくっちゃ。
専務さんから炬燵とストーブをもらった。
本当に皆さんのお陰で毎日毎日生きていける。
お金が出来たら、みんな呼んで御礼をしたい。
(昭和五十七年四月五日)
今日は亡くなった子供の命日だった。
仕事は名古屋だったので、帰りに何かお供えを買ってと思って居たけど、あっちこっちと用事をたして最後になったらお金が少なくなり、お供え物が、あんぱんになっちゃった。
此の子供が此の世に居たら私の人生は何んな人生だったかな?…
(昭和五十七年四月十五日)
朝たくさん雨が降っていた。
今日、高橋さん夫妻が遊びに来てくれた。
色々とお土産をたくさんもって来てくれて本当に助かった。
其の上、洗濯機を買う様にと、お金迄いただいた。
涙が出る程、嬉しい。
四時半頃、駅西の掃除をして居る時にバスから降りた(高橋御夫妻を)専務が家迄送りとどけて、おまけにビールとお酒を買ってくれて、とっても感謝している。
夜、高橋さんを連れて飲みに行き、十一時頃迄帰って来なかったので、田んぼにでもはまってやしないかと心配したけど、無事に帰って、やれやれ。高橋さんも専務も、とっても楽しかったと喜んでくれた。
(昭和五十七年四月二十日)
今日は同朋高校へいった。
生徒も先生も御苦労さんと云ってくれる。
子供達の嬉々とした姿を見ると、比奈子の高校時代の頃が思い出される。
(昭和五十七年五月二十四日)
尾西を出てから今日で丸一年になる。
此の一年間お父さんに対する後ろめたさ、又は憤り、悲しさ、あらゆる事をくぐりぬけて一年たった。
心の中にすっきりと云う事が無く、ある時は吐き出し、ある時は落ち込み、少しづつ楽な気持ちになりつつある。
昨日は日曜日で休んだけど、手の痛みやら気持ちのやり場の無い自分を持て余して今日も休んだ。
達ちゃんには内緒にして休もうと思い、会社へ出て行くのを待って私も出掛けた。
達ちゃんが一生懸命に働いて居るのに親がくじけてはいけないと思って努めて明るく振る舞った。
お姉ちゃんの所へ行って一日過ごして帰って来た。
お姉ちゃんの所へ行くと結局お父さんの話が出るけど、私の都合のいい様にして話の結末をつけて自己満足している。
其れでないと又、今夜も眠れなくなる。
(昭和五十七年八月六日)
今日めずらしく比奈子が泊りに来た。
一宮のお母さんがいい人だから、私に似てノンビリ屋さんだけど何となくおいてもらえそう。
色々話を聞いて安心した。
小夜子、比奈子、達雄君、それぞれに自分の道を正直に生きてほしい。
私も今だに頭のすみにこびりついて居る、お父さんの事すっきり取りのぞきたい。
此れは死ぬ迄は無理だろう。
(昭和五十七年八月七日)
今日土曜日、達ちゃんは今晩も夜中のドライブだと云う。
又々心配だ。
先日、達ちゃんがお父さんに会ったと云う。
元気にやってるらしいと満足して居た。
私には満足していいのやら何と無く複雑だ。
自分の走った行動がいい事とは思わないが、自分にとって後悔は一度もした事がないので、毎日ばくぜんと行くよりか仕方が無い、私の希望は達雄君が嫁さんをもらって家を建てたら、其の時に命が終っても仕方が無いと思って居る。
どんなに精神的体力的に苦しくても働く事だ。
いのち消ゆる、その時まで… (22)
母は父と離婚をしたあと、約十四年間生きていたわけだが、この十四年間があったからこそ、母の人生は救われたと思うのである。
当初は光洋ビル管理の仕事で、施設や公園などの清掃員として働き、やがて名古屋私立同朋高校の常設清掃員となり、そこで様々な出逢いと信用が付き、平成四年四月からは、名古屋音楽大学の女子寮の寮母になった。
親元を離れて学業に取り組む若き娘たちが、母の新しい家族であった。
もちろん母にとっても始めての仕事で、しかも人様の大切な娘さん達を御預りするわけだから、精神的にも肉体的にも大変であったと思う。
しかし私は母の人生を身近に見てきて思うには、寮母としての約三年の月日が、母の人生途上においては最も安定し、人格としても高揚した時期ではないだろうか。
苦節何十年とまでは言えないにしても、長すぎた低空飛行で何度も態勢を崩しながらも、持ち前のプラス思考を駆使しながら、自力で飛び立つことに成功した。
もちろんその都度母の飛行を助けたフォローもあったし、数々のアドバイスも受けたであろうが、何においても本人自身が前向きに生きんとしなければ、恩人たちの手助けもアドバイスも無駄になってしまうでありましょう。
晩年の母は最後の最後まで人生を諦めなかった。
それは一重に恩人たちへの報恩のためであった。
誌面の都合もあって、母の手記を総て紹介するわけにはいかないが、今しばらく手記を断片的に記しておきたいと思う。
当初は光洋ビル管理の仕事で、施設や公園などの清掃員として働き、やがて名古屋私立同朋高校の常設清掃員となり、そこで様々な出逢いと信用が付き、平成四年四月からは、名古屋音楽大学の女子寮の寮母になった。
親元を離れて学業に取り組む若き娘たちが、母の新しい家族であった。
もちろん母にとっても始めての仕事で、しかも人様の大切な娘さん達を御預りするわけだから、精神的にも肉体的にも大変であったと思う。
しかし私は母の人生を身近に見てきて思うには、寮母としての約三年の月日が、母の人生途上においては最も安定し、人格としても高揚した時期ではないだろうか。
苦節何十年とまでは言えないにしても、長すぎた低空飛行で何度も態勢を崩しながらも、持ち前のプラス思考を駆使しながら、自力で飛び立つことに成功した。
もちろんその都度母の飛行を助けたフォローもあったし、数々のアドバイスも受けたであろうが、何においても本人自身が前向きに生きんとしなければ、恩人たちの手助けもアドバイスも無駄になってしまうでありましょう。
晩年の母は最後の最後まで人生を諦めなかった。
それは一重に恩人たちへの報恩のためであった。
誌面の都合もあって、母の手記を総て紹介するわけにはいかないが、今しばらく手記を断片的に記しておきたいと思う。
いのち消ゆる、その時まで… (21)
いま世に離婚者が増えているといわれているが、さまざまな事情があり結果的に別離を選ばなければならない方々も居らっしゃるであろう。
本人たちの問題であるから私はこのことをとやかく言うつもりは無いが、そこに子供たちが居る場合は、どうか慎重な御判断を願いたい。
私のような人間でさえ精神的に大きなダメージを受け、その後の人生に影響が及んだのである。
ましてや子供がまだ両親の愛情が一番必要な幼児期にある御夫婦は、子供たちの将来もよくよく考慮に入れて判断するべきではないか。
結婚をするということは、もはや自分一人だけの責任問題ではなく、伴侶の全責任をも共有するものであるということ。
また子供を生み出すということは、さらに子供の全責任まで共有するということ。
都合の良い部分だけ頼るのではなく、都合の悪い部分まで共有を余儀なくされるということを胆に命じていただきたい。
いまや自分の責任すら持てない人が横行する時代にあって、私たち母子の経験は、何かしらの教材になりうるのではないだろうか。
本人たちの問題であるから私はこのことをとやかく言うつもりは無いが、そこに子供たちが居る場合は、どうか慎重な御判断を願いたい。
私のような人間でさえ精神的に大きなダメージを受け、その後の人生に影響が及んだのである。
ましてや子供がまだ両親の愛情が一番必要な幼児期にある御夫婦は、子供たちの将来もよくよく考慮に入れて判断するべきではないか。
結婚をするということは、もはや自分一人だけの責任問題ではなく、伴侶の全責任をも共有するものであるということ。
また子供を生み出すということは、さらに子供の全責任まで共有するということ。
都合の良い部分だけ頼るのではなく、都合の悪い部分まで共有を余儀なくされるということを胆に命じていただきたい。
いまや自分の責任すら持てない人が横行する時代にあって、私たち母子の経験は、何かしらの教材になりうるのではないだろうか。
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